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AlphonseのCINEMA BOX

管理人Alphonseが観た映画の感想を書いているブログ。

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劇場版 鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来特集


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SPECIAL BOX。
第32弾は、「劇場版 鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来」特集です。

猗窩座再来画像
クリックすると大きな画像が見えます。

ネタバレ満載ですので、ご注意ください。

それでは、お楽しみください。

目次

作品紹介&あらすじ
感想
人気の秘密
編集後記
参考にしたサイト

■作品紹介

◆制作年:2025年◆タイトル:劇場版 鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来
◆監督:外崎春雄◆主演:竈門炭治郎、富岡義勇◆助演:胡蝶しのぶ、我妻善逸、童磨、獪岳、猗窩座
◆コメント:決戦の火蓋を切る――
俳優、および監督名はインターネット上で調べたものを掲載しています。
主演、助演の区別は独断と偏見で決めさせていただきました。

■あらすじ

無限城に集められた鬼殺隊。
胡蝶しのぶは上弦の弐・童磨(どうま)と対決。
我妻善逸(あがつまぜんいつ)は上弦の陸・獪岳(かいがく)と対決。
竈門炭治郎(かまどたんじろう)と冨岡義勇(とみおかぎゆう)は、上弦の参・猗窩座(あかざ)と対決するのであった。

■感想

観客

前作の「無限列車編」に迫る大ヒットを飛ばした本作だが、正直なところ今一つ。

「スターウォーズ」で森の中を疾走するシーンを彷彿とさせるようなところもあり、アクションシーンは素晴らしかったし、猗窩座の過去もなかなか泣けるエピソードでよかったのだが、いかんせん観客のせいですべて台無しとなってしまった。

観客がポップコーンばかり食べていて、全く集中できなかったのだ。

アクション目当てと、話題に乗るために鑑賞している客しかいなかったように思う。直近で観た「国宝」と観客層が違ったのも影響したかもしれない。泣けるエピソードでごそごそと動き出す観客に集中力を削がれまくりだった。

人気作であるがゆえに、そういった観客と鉢合わせしないよう、敢えて公開から何ヵ月も待って足を運んだのだが、その甲斐はまるでなかった。これならテレビ放映を観ていた方が余程全集中できたかもしれない。

作品自体の評価よりも、映画館の環境に影響されて全く楽しめない作品になってしまったのが悔やまれる。

構成

どうにも釈然としないので、SNSにあふれている意見を読んでみた。どうやら構成に問題があるらしいのだ。

本作では胡蝶しのぶが童磨に負けてしまい食われてしまう。このエピソードだけでも充分に衝撃的で、映画1本でもいいくらいのインパクトがある。

にもかかわらず、我妻善逸との戦闘まで描き、最後に猗窩座戦まである。結果、焦点がぼやけてしまったのだ。

テレビ版の「柱稽古編」の最後で、胡蝶しのぶの最後を描いても良かったのかもしれない。そうすれば、本作の善逸戦は前哨戦という形になり、猗窩座戦が際立つ形になっていただろう。

これは原作つきの作品を映像化する際のジレンマかもしれない。映画にすると長すぎたり、短すぎたりする。必要以上に長く描くとテンポが悪くなるし、短いと感動的でも衝撃的でもなくなってしまう。

尺調整

それから本作はフジテレビが一切関わっていないが、テレビ放送することを見越して、尺調整をおこなっているように思えて仕方なかった。

いかにも「ここでCMが入る」といわんばかりの話の流れなのだ。しかしこれはスタッフがテレビ版の方を長く製作しているので、わからないでもない。

風化

そんな本作だったが、前作の無限列車編から5年。流石に時間による風化が出始めている。

原作はすでに終了していて、新しい驚きもないため、極力事前情報を入れないように鑑賞したにもかかわらず、今一つ楽しめなかった。

以前なら鬼の過去に同情して感動もできたのだが、富裕層と貧困層の分断が色濃くなったり、権力者が交替したりと、世相が変わっているせいではないかと勝手に思ったりしている。

■人気の秘密

ここでは鬼滅の刃の異常なまでの人気の秘密を自分なりに考えてみようと思います。

2020年ごろのコロナ禍。この時、学生だった人たちは、修学旅行、体育祭、文化祭といった全ての学校行事がキャンセルされている。

体育会系の競技大会は軒並み中止、文化系も同様。部活に入っていない人々でも、何かしらのイベントは全て中止。自宅の巣ごもり生活では、テレビドラマやアニメは再放送ばかり。新しいものは何一つ提供されない。

わずかにSNSで話題になるものはあったにせよ、SNSの影響力は「界隈」なんて言葉が生まれるぐらい少数派でしかなく、また多様性も相まって大勢で盛り上がることがない。

そんな最中の「無限列車編」。

他に楽しみがないのだからエンタメに飢えている人たちがこぞって鑑賞し、大ヒットを記録した。

この時期に学生時代を過ごした人たちにとって「鬼滅の刃」は共通言語になっている。

何も言わずとも同級生や先輩、後輩と同じ話題で盛り上がることができる。これは昨今では、かなり貴重な経験だ。

ある世代には鉄腕アトム、巨人の星、宇宙戦艦ヤマト、機動戦士ガンダム、ドラゴンボール、トトロだったりするのと同じ感覚だ。

そんな世代にも、「泣けるアクション時代劇」である鬼滅は、ある世代には刺さる。エンタメに飢えた大人たちにも共通言語となっていく。

「無限列車編」から5年。大学生は社会人となり、金銭的余裕が出来たため、何度でも映画館に足を運ぶ。

未だに学生の人たちも共通言語である「鬼滅の刃」を避けては通れない。

しかも「無限列車編」と同じく本作はPG12指定作品だ。子供が観たいと言えば、親は付き添いで見ざるを得ない。結果、付き添いの大人料金が興行収入に加算される。

ここへIMAXの特別料金、入場料の値上げといったインフレ率、入場者特典の配布による集客まで考慮すれば、これだけの大ヒット。当然と言えば当然なのである。

■編集後記

今回も短めの特集です。

テレビ放送を観て感動したら後悔するだろうなぁ、と映画館で観ましたが、人気作だけに観客にいらつく、というなんとも締まらない結果になってしまいました。

こうなると、ますますテレビ放送でしか楽しめなくなってしまいます。果たして第二章はどうなりますことやら。そんなこと予想すればするほど、鬼が笑っていることでしょう。

■参考にしたサイト

以下のサイトの情報を参考にさせていただきました。

フリー百科事典「ウィキペディア」
映画チラシサイト(画像はここから入手しました。)

ありがとうございました。

猗窩座再来画像
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国宝特集


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SPECIAL BOX。
第31弾は、「国宝」特集です。

国宝画像
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ネタバレ満載ですので、ご注意ください。

それでは、お楽しみください。

目次

作品紹介&あらすじ
感想
編集後記
参考にしたサイト

■作品紹介

◆制作年:2025年◆タイトル:国宝
◆監督:李相日◆主演:吉沢亮、横浜流星◆助演:高畑充希、寺島しのぶ、森七菜、三浦貴大、見上愛、田中泯、渡辺謙
◆コメント:ただひたすら 共に夢を追いかけた―
俳優、および監督名はインターネット上で調べたものを掲載しています。
主演、助演の区別は独断と偏見で決めさせていただきました。

■あらすじ

ヤクザの新年会で才能を見染められた喜久雄(吉沢亮)は、半二郎(渡辺謙)の養子となるのであった。

■感想

いやぁー、なかなか面白かった。

実写映画の記録を更新しそう(後に更新した)という事で、映画館に足を運んで鑑賞した。

序盤は大して面白くない。どこにでもありそうな作品だ。しかし、曾根崎心中を演じるあたりから、俄然面白くなる。吉沢亮の名演技に、圧倒されまくりなのだ。

そこが唯一の見せ場と言えば見せ場。あとは延々歌舞伎界にありそうなスキャンダラスな話が続く。

あと、歌舞伎の舞台が終了するたびに、割れんばかりの拍手が巻き起こる。これが観客を興奮させているように思われる。私的には「Wの悲劇」を彷彿としてしまった。

それから歌舞伎の演目がなかなか趣向を凝らしている。連獅子、道成寺、と歌舞伎に詳しくなくとも一度は耳にしたことのある演目だ。

本来なら連獅子を主演の2人にやって欲しかったところだが、それは作品の内容から無理な相談だろう。道成寺に関しては、横溝正史お気に入りの演目で「獄門島」でおなじみだ。このあたりのチョイスは見事と言う他ない。

そして本作は登場人物が少ない。序盤は吉沢亮、横山流星、渡辺謙、寺島しのぶの4人だけで話が進む。

中盤は吉沢亮、横山流星、高畑充希、森七菜の4人だけだ。

結果、主演の2人の感情の機微が実に丁寧に描かれている。多くの映画を観てきた人には、大したことではないが、ここまで丁寧に描かれた作品が昨今の邦画界にはないのだろう。それゆえ高評価につながったと思われる。

それもこれも原作は読んでいないので確かなことは書けないが、脚本の妙だろう。脚本家の奥寺佐渡子は細田守監督作品の脚本を手掛けていた人だ。細田守監督作品がつまらくなったのは脚本に奥寺佐渡子がいないからだ、とも言われるが、ここにきて実証されたように思う。

あと映像的には田中泯の、にらむシーンが秀逸。実にかっこいい。画面右端に顔を寄せて、左側に余白を作る。まさに映像美の極みだった。

この映画を観て歌舞伎に興味を持った人もいるようだが、そんな感じは私には全くなかった。

というのも女形は日常からして女性っぽい。しかし吉沢亮、横浜流星ともにイケメン丸出しで骨っぽいのだ。私的には芸能の世界の光と影が見え隠れする作品だったように思う。

■編集後記

今回は久しぶりに短めの特集です。

ヒットしたということで観てみましたが、少し期待しすぎていたかもしれません。それでもヒットしただけのことはある作品でした。

吉沢亮と横浜流星。今後どのような芸能活動を送っていくのか、本作同様に気になりますね。

■参考にしたサイト

以下のサイトの情報を参考にさせていただきました。

フリー百科事典「ウィキペディア」
映画チラシサイト(画像はここから入手しました。)

ありがとうございました。

国宝画像
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八犬伝特集4


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■編外余録

ここでは思いつくまま書いていこうと思います。

八犬伝は駄作か

今から思えば、八犬伝が伝奇ファンタジーの傑作。という宣伝文句に踊らされていたように思います。

壮大なスケールの冒険活劇と期待していたものの、山田風太郎「八犬伝」では最終決戦はダイジェストで省略され、鎌田敏夫「新・里見八犬伝」はオリジナル。馬琴版のラストが一向に描かれていません。

今回の映画「八犬伝」でやっと馬琴版が映像化されましたが、傑作というほどすごいものでもありませんでした。

無理もありません。人類の存亡、地球の命運、銀河の平和、などというSF作品などとは程遠く、天下国家をかけた一大決戦でもなく、ただの地方の内戦を描いただけなのですから。

物語の進め方も、馬琴版は八犬士とまわりの人々との関係を延々と事細かく書いていくだけ。両親が何をしていようが、近所にだれが住んでいようが、お構いなしの現代の虚構の作風とは、あまりにも違いすぎます。

それだけ江戸時代は親子の関係が濃く、近所づきあいも密接だったということでしょう。

また登場人物が多いのも家族の多い江戸時代ならでは。
医療が未熟だったため、子どもが成人する前に、病気で死んでしまうかもしれません。そのため必然的に子だくさんになります。七人、八人兄弟など当たり前です。

その孫を主人公にすれば、当然、叔父、叔母が数多く登場しますから、主人公のまわりの人物を事細かに書いていくと、話は一向に進みません。

映画もラジオもTVもネットもない時代。娯楽は歌舞伎か読本しかなかったからこそ、成立した展開です。
コロナ禍で多くのエンタメが活動を制限され、「鬼滅の刃」のみが一人勝ちしたのと同じ理屈です。
それしか選択肢がなかったのです。

馬琴版がベストセラーになったのは、江戸時代の庶民の生活に根ざし、共感できる部分が多かったからだと思います。
そしてベストセラーゆえに、現在でも読むことが可能なのです。

それに八犬伝を傑作と呼ぶのは八犬伝の研究者であり、その傑作とする拠り所は非常に些末な箇所が多く、ともすればどうでもいい、あるいは考え過ぎ、と思えるような箇所もあります。

前述した「伏」が「人」と「犬」に分けられるという仕掛けも、人によっては「それが何か?」というような些末なことです。物語の大筋に関わることではありません。実際、馬琴版では、この仕掛けに触れていますが、山田風太郎版や鎌田敏夫版ではこのことに触れられていません。

また数多くのファンタジー作品に慣れ親しんだ人には、やはり時代遅れの感が否めないかもしれません。

こういったことは古典的名作とされるものにはよくあることです。ミステリーの世界では古典のトリックが現代の作品に平気で流用されたりしますから、どうしても見劣りしてしまうのは、しかたないことかもしれません。

八犬伝は傑作か

明治以降、科学万能主義、西洋思想の流入によって、八犬伝は過去の作品扱いされ、一部の時代もの好きの間だけでしか評価されなくなります。

また、忙しい明治の人々にとってテンポの遅い八犬伝を読む時間などありません。ファンタジー要素も、でたらめな子供だましの物語だと扱われていたでしょう。

そんな八犬伝が再注目されはじめるのは、高田衛「八犬伝の世界」が出版されてからです。

この考察本では、文章だけでなく挿絵を読み解くということがされています。というのも、江戸時代の挿絵は絵師が勝手に書いたものではなく、作者自ら細かく指定したものが書かれていたからです。

以降、山田風太郎版や鎌田敏夫版が書かれたのは前述のとおり。しかしまだファンタジーという言葉ではなく伝奇ロマンという言葉が一般的でした。おそらく「宇宙戦艦ヤマト」がロマンを連呼していたからでしょう。

それが「ファイルファンタジー」の出現によって、ファンタジーという言葉とそのジャンルに市民権が与えられます。

すると江戸時代に賢者の石のような宝珠、火の魔法のような火遁の術、エクスカリバーのような村雨、モンスターに化け猫を登場させていた作品があったことに、皆が再評価しはじめるのです。

以降「ロード・オブ・ザ・リング」や「ハリーポッター」の頃には、八犬伝のアニメやTVドラマがつくられ、ファンタジーブームの到来時には、必ず八犬伝にスポットがあたるようになっていきます。

八犬伝の実写化

今回の映画「八犬伝」を受けて、馬琴版「八犬伝」を全て実写化してほしいという声もありますが、追加分は、せいぜい30分か1時間でしょう。信乃がだまされるシーンと浜路の恋物語を詳しく描き、あとは新兵衛のエピソードを追加するぐらいで終了です。

というのも、その他の犬士のエピソードが弱すぎて、信乃のエピソードが強すぎるからです。名刀村雨あり、浜路との恋物語あり、荘助、現八との出会いありと省略したくとも出来ません。

新兵衛は映画「八犬伝」では最後登場して、すぐ仲間になりましたが、馬琴版では信乃並みにエピソードが豊富な犬士で、馬琴版を忠実に映画化しようとすると、これまた外せないからです。

他の犬士のエピソードでは大角の化け猫退治が映像化に向いていますが、今時、化け猫でもないでしょう。それに初見の観客が二時間で理解するには、登場人物が多く複雑に絡み合っているので、映画には向かないのです。

また「伏」の文字の仕掛けなど、映像でわざわざ解説するなど無粋です。犬づくしも同様です。文章の中でこそ生きる仕掛けです。

それに江戸時代の作品のため、当時は問題ない描写でも今ではNGになる箇所も出てくるでしょう。そこは映像化したくてもできません。

結果的として映画「八犬伝」にいくつか追加するだけの作品になるということです。

本気で完全実写化するのなら大河ドラマなみの連続ドラマにし、馬琴が作中に散りばめた謎を毎回解説するコーナーでも作らないと、この壮大な作品の面白さを完全には伝えられないと思います。

しかし、そうなると予算が際限なくかさんでしまいますから、化け猫はCGではなく、しょぼい着ぐるみになり、お子様向けのチープな作品になるのは目に見えています。アクションシーンや合戦シーンはナレーションでおしまい。ってことになりかねません。

結局ネットフリックスか、ワーナーか外資の力で映像化するしか道が残っていない。というのが「実の世界」なのです。

■編集後記

あー、また、えらい長い特集になってしもうた。。。

今回は映画「八犬伝」というより、八犬伝に関して。という感じになっています。
そのため読書感想文のような箇所もあります。

本作のヒットを受けて、馬琴版の実写化があるかもしれませんが、どうでしょう。
私の八犬伝熱が冷めているので、馬琴版の実写版が公開されても観るかどうかわかりません。
演者、監督次第でしょうか。

八犬伝はTVドラマあり、アニメあり、子ども向けあり、外伝あり、人形劇あり、と色んなバージョンが作られているので、どんなものになるかによっても違ってきます。

まぁ、製作されるかどうかもわからない作品のことを書いても仕方ないので、ここらで締めます。

■参考にしたサイト

以下のサイトの情報を参考にさせていただきました。

フリー百科事典「ウィキペディア」
映画チラシサイト(画像はここから入手しました。)

ありがとうございました。


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八犬伝特集3


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■山田風太郎「忍法八犬伝」について

ここでは、山田風太郎のもうひとつの八犬伝。「忍法八犬伝」(徳間文庫版)について書いていこうと思います。

初見は高校生のころですが、当時の感想など記録していないので、以前、再読したときの感想を書いておきます。
ネタバレしている箇所があります。それでも構わないという方のみ、お読みください。


【あらすじ】

 時は慶長十八年。里見家の宝珠、伏姫の八つの珠を時の将軍の子、竹千代が所望。里見家当主安房守忠義はこれを承諾する。受け渡しは来年九月九日と決まった。
 ところがその年の暮れ、八つの珠は何者かに盗まれてしまう。
 黒幕は本多佐渡守正信。里見家をとりつぶすため、伊賀忍者服部半蔵に命じて盗ませたのだ。
 来年九月九日までに八つの珠を取り戻さないと里見家はつぶされてしまう。甲賀卍谷で修行していた八犬士は無事八つの珠を伊賀忍者から取り戻せるのか?

【感想】

 解説によると、本書品は週刊アサヒ芸能に連載された。とある。後年、風太郎先生「八犬伝」を朝日新聞の夕刊に連載した。なにかしら朝日新聞社と縁があったのかもしれない。
 それよりも、連載先が芸能週刊誌と、新聞とではこうも違うのかと思いたくなるぐらい、八犬伝に対するイメージが変わってくる。
 連載時期も関係しているのだろう。「忍法八犬伝」は1964年。一方「八犬伝」は1982年から1983年。
 二十年近い隔たりがある。作者の年齢も関係してくるのか、「忍法八犬伝」は若々しく、テンポよく物語が進んでいくのに対して、「八犬伝」は老齢の曲亭馬琴ばかりが印象に残ってしまう。

 前置きはこれくらいにして、細かく内容に触れていこう。
 物語としては馬琴の八犬伝(以下馬琴版とする)の後日談という形になっている。序盤登場する老齢の八犬士は、馬琴版の八犬士の孫で、忠義の権化のような形で描かれている。
 珠を盗まれてしまった責任を感じ、老齢の八犬士は切腹して後事を息子たちにたくす。
 本書で活躍するのは、その息子たち。馬琴版の八犬士のひ孫たちなのだ。

 ところが、この息子たち。甲賀忍者の里、甲賀卍谷での修行を一年ちょっとで切り上げて好き勝手なことをしている。
 里見家から珠を取り返すように依頼が来ても、息子たち全員がどうみても利口にみえない主君里見安房守をきらいときているから、里見家がどうなろうと知ったことではない。
 忠義のために奔走するなどまっぴらごめん。というわけだ。実に現代的。馬琴版とは全く違うキャラクターである。

 このままでは珠を取り返す話にはならないから、風太郎先生、村雨というお姫様を登場させる。この村雨、里見安房守の奥方で、里見家をとりつぶす一因にもなっている。
 村雨は責任を感じ、息子たちに珠を取り戻してくれるよう、自ら頼みにいく。
 この姫様に好意を持っている息子たちは、頼まれるとイヤとはいえない。
 結局、姫様のために珠を取り返すことになるのである。

 やっと珠を取り返す展開になった。
 八人揃って珠を取り返せばいいようにも思えるのだが、八人の戦闘を同時に書くのも大変だろう。読む側にしても、誰かが戦っている間、他の人がどうしているか気になってしまい、集中できない。
 そこで、風太郎先生。村雨と会った途端、息子たちがやる気になって珠を取り返す展開にし、一人で戦うように話を進めている。そのため実に読みやすい。

 また時間経過もスピーディだ。
 珠を盗まれたのが年末。
 老齢の八犬士の切腹が一月九日。
 村雨が息子たちに頼みにいくのがその二十日以降。

 連載期間が最初から決まっていたからこうなったのか、連載打ち切りになったためこうなったのかわからないが、ともかく、この展開の速さと読みやすさが物語をおもしろくしていることは間違いないだろう。

 物語の展開が速いので、あまり気にならないかもしれないが、本書では人物の行動に論理的な理由がちゃんと存在する。
 特に服部半蔵が息子たちの罠にかかるあたりは論理的に筋道が通っている。
 また移動に関しても同様で、敵味方いずれも論理的に行動している。偶然そこに現れるのではなく、そこに現れるには必然ともとれる理由が必ず存在している点は特筆すべき点だろう。

 いかにして珠を取り返すかは実際に読んで欲しい。山田風太郎作品独特の荒唐無稽、奇想天外なお色気満載の忍法が登場してくる。とだけしておこう。
 印象に残った忍法は二つ。
 一つは袈裟御前。この忍法にかかったら、本当に現八のようになってしまうのだろうか。にわかには信じられない。
 もう一つは地屏風。「おぉ。」と驚かずにはいられない。
 その他で印象に残ったのは、村雨と信乃の話や、角太郎の顔が漫画的な点や、息子たちが村雨をめぐって妬きもちをやくあたりだ。

【馬琴版との違い】

 ここでは、馬琴版との違いを書こうとおもう。
 「八犬伝」を読めばわかると思うが、馬琴版の八犬士は幼くして両親を亡くし、作中で親類縁者を亡くし天涯孤独になってしまう。
 そのため、不思議な珠をもち、牡丹のアザがあるという共通点が何かしら運命的なものを感じさせ、仲間を求めて各地を探し回ることになる。
 ところが、本書はそんな孤独感や運命で結び付けられているという感じが全くない。テンポを重視したのか、八犬士は江戸周辺に集まっていて、八人がなにかしら連絡をとりあっている。そのため、すぐに八人が登場できるようになっている。

 さらに、馬琴版では唐獅子のような巨大な犬、八房は序盤しか活躍しない。
 ところが、本書は八人それぞれに八房がいる。この八房。本書では終始活躍する。
 珠を取り返すよう息子たちに指示を伝える役。ちょっとした事件の発端となる役。敵の目をくらませる役…。
 風太郎先生、変幻自在に八房を活躍させている。

 他にも、馬琴版では村雨は鞘から抜くと水がしたたり、血のあとをとどめず、切れ味抜群の名刀として登場するが、本書では姫様として登場する。
 馬琴版で同じような可憐な女性役といえば、浜路だが、本書では信乃が一時名乗る名前として登場している。
 馬琴版を知っている人にも楽しめるよう、趣向をこらしているあたりはさすがだ。

 一方で、忠僕滝沢さ吉が最後まで息子たちを発見できない場面では、展開の遅い馬琴版を皮肉っているようにも思える。
 物語が進むにつれて登場人物が増えてくる馬琴版と対比をなすかのように物語が進むにつれて登場人物が減っていくあたりも同じような感じを受ける。

【余談】

 「八犬伝」を先に購入したのか、「忍法八犬伝」を先に購入したのか忘れてしまった。初見では「八犬伝」のほうが面白かったように思う。
 すでに、「魔界転生」は読了し、いくつか忍法帖も読んでいたため、忍法の出ない「八犬伝」の方が新鮮にうつったのかもしれない。
 しかし、久しぶりに読んでみると本書の展開の速さに驚かされる。あっという間に読んでしまった。

 ところで、内容に触れないで感想など書けるものなのだろうか?
 ある解説に「解説はどう書くのが正解なのか?」というようなことを書かれていたのを思いだしたからだ。

 作品の序盤だけなら、文庫版の表紙の一部に書かれていたり、冒頭の一ページに書かれてあったりするが、あらすじ全部を書いてしまうのは果たして解説としてありなのか?
 本書の解説中島河太郎氏は解説にはよく登場する方で、他の山田風太郎作品の解説やミステリー作品にも解説として登場することがある。
 そのどれもが、ほとんどネタバレしているため、本文を読まずとも解説だけですんでしまうところがある。
 そうかといって、それなりのページ数が決まっているのだから「あぁ、面白かった」だけで解説を終わらすわけにはいかないだろう。
 ネットにも似たようにあらすじを書きながら感想を書いているサイトがいくつかある。すでに内容を知っている人からすればあらすじなどはどうでもいい情報だ。
 逆にあらすじだけを知りたい人には感想などどうでもいい情報だ。

 あらためてどう書くのが正解なのだろう。という疑問が沸いてしまう。
 感想自体は好きに書いて構わないと思うけれど、どこまでネタバレしていいものか困ってしまう。ミステリー作品の場合は特にそうだ。
 そんなことを考えながら、今回は感想を書いていた。


以上が再読時の感想です。

■高田衛「八犬伝の世界」について

ここでは、高田衛「八犬伝の世界」(中公新書版)について書いていこうと思います。

先述したとおり、鎌田敏夫版、山田風太郎版を読んでも、壮大な伝奇ロマンという感じがしなかった私は本書に手を出すまでになりました。

本書は、今でいう考察本。エヴァンゲリオンなどの考察サイトなどで、おなじみです。
「あのシーンはこういう意味が」とか
「あのセリフから、こう読み解ける」とか
といった類いの本です。

したがって感想というものはありません。ただ八犬伝つながりで、紹介しておこうと思っただけです。

この手の考察本を読みなれていない方は苦戦するかもしれません。細かく書いてもいいのですが、書けば書くほど引用だらけになってしまいそうなので、印象に残った箇所のみ書いておくこととします。

全体を通じて

この考察本、ネットで目にする考察サイトとは一味も二味も違います。
ありがちな考察サイトは考察する作品のみで、完結しています。

しかし本書では、八犬伝は言うに及ばす、馬琴の他作品、同時代の作品、海外の古典、日本の歴史書、神話、民話、当時、馬琴が影響を受けたであろう作品から考察を進めているのです。

しかも影響を受けた作品は小説だけではありません。歌舞伎や浄瑠璃といった、江戸時代に流行したものまで取り込んで考察しているのです。

生半可な知識量や情報量で書かれていないことがよくわかります。

しかし、あくまでこれは高田衛の考察であり、作者の意図する所とは違う場合もあるはずなのですが、もっともらしい説明がついているため、
「なるほど、そういうことだったのか」
と読んでいるこちらは納得してしまいます。

こんな考察本は、以前からあったのかどうか知りませんが、本書が出たころは、「ガンダム」でも似たような考察ブームがありました。
「ガンダム」では「ニュータイプとは何か」がやたら考察されていましたが、その考察ブームに乗っかったのかもしれません。

本書の出版以後、山田風太郎「八犬伝」が書かれ、映画「里見八犬伝」が公開されています。
80年代、ちょっとした八犬伝ブームがあったのかもしれません。

印象に残った点

その一

言葉あそび。丶大法師。「丶」と「大」。この二文字を組み合わせると「犬」になる。
これに興味をそそられました。
伏姫の「伏」も「人」と「犬」に分けることができます。
鯉は「魚」と「里」に分けることができ、里見の魚となります。
他にも漢字を使った言葉あそびがありますが、忘れてしまいました。

その二

八犬士たちが皆、天涯孤独であること。これが英雄の条件だと考察します。
「逃げ上手の若君」や「スターウォーズ」の例を紐解くまでもなく、「桃太郎」は両親の顔を知らずに育ちます。

高田氏が知っていたか、わかりませんが、なんのことはありません。ヒーロージャーニーに則っているだけです。

その三

尽くしの美学。または揃いの美学。史実では武田信玄の赤備えなどがあります。八犬伝では、八犬士の苗字に全て「犬」がついています。この何々尽くしは、敵の名前にも反映されており、「猫」「馬」「牛」など、動物の名前が一文字入っています。
船虫にいたっては、そのままです。

その四

宝珠の文字と名前。信乃の名前から彼が持っているのは「信」ではないかとおもわれますが、そうではありません。彼が持っているのは「孝」です。
つじつまが合わないようですが、そんなことはありません。
信乃の正式名称は犬塚信乃戍孝だからです。
他の犬士も同様に正式名称には宝珠の一文字が入っています。

その五

獣との婚姻。伏姫と八房が結ばれて八犬士が誕生する冒頭のエピソード。このエピソード、現代人からすれば、まさにファンタジーそのままですが、本書によれば「太平記」のころからあるエピソード。東アジアで古くからある民話をもとにしています。

その他にも数多くありましたが、忘れています。小説のように再読する気もおきないので、なおさらです。


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八犬伝特集2


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■鎌田敏夫「新・里見八犬伝」について

ここでは、鎌田敏夫「新・里見八犬伝」(カドカワノベルズ版。上下二巻)について書いていこうと思います。

私が初めて八犬伝に出会ったのは、本書です。

通常は、映画を観てから原作を読むことが多いのですが、この里見八犬伝に関しては原作小説のほうが先でした。

読むきっかけは、本の帯に「角川映画化」という文字があったためです。
それに当時の角川文庫のしおり。というか文庫に、はさまれた宣伝にエンターテイメントの最高傑作「南総里見八犬伝」という文字があった。ということもあります。

今から思えば、エンターテイメントの最高傑作という文言に過度の期待をしてしまいました。それゆえ、八犬伝熱が、しばらく続くことになるのですが、当時の私は、そんなこと知る由もありません。

初見は高校生のころですが、当時の感想など記録していないので、以前、再読したときの感想を書いておきます。
ネタバレしている箇所があります。それでも構わないという方のみ、お読みください。


【あらすじ】

不思議な珠をもつ八人と、悪人との対決を描く。

【上巻感想】

 まずは上巻の感想から書いていこう。
 初見時、上巻は助平な小説だとおもったが、再読時もその感じはぬぐえなかった。それも無理はない。官能伝奇ロマンとうたってあるのだから。
 しかし、助平な小説というだけで終わってしまっては、わざわざここに書く必要もない。それ以外で気になった箇所を書いていこうとおもう。

 映画「八犬伝」の原作、山田風太郎の「八犬伝」(以下風太郎版とする)を先に読むか、本書を先に読むかと問われたら、私は断然本書を先に読むことをオススメする。

 風太郎版は馬琴の八犬伝(以下馬琴版とする)とほぼ同じであるため、馬琴版の和漢混淆文になれない人には親しみやすいものの、やはり馬琴版をベースとしているため、八犬士たちの出生に関する記述が多い。
 両親が何をしていた人とか、昔どうだったとか、八犬士が生まれる以前や幼少期の話が多く、それが複雑に絡み合っている。
 これが八犬士たちに生まれる前から宿縁があったかのように思わせ、八犬士たちが結束していく一因ともなっているのだが、八人の両親となると十六人。八犬士と合わせると総勢二十四人。それぞれが複雑にからみあっているので、なかなか話が先へ進まない。
 ところが、本書は不思議な珠を持って不遇な境遇という共通点以外何もない。両親に関する記述も控えめで、犬士たちが、行く先々で偶然出会ったような感じになっていて、読みやすい。
 また、時代物にありがちな二尺三寸といった単位や、小袖といった着物や容姿に関する用語も控えめ。地名も現在と大差ない場所にしてあるのでわかりやすい。

 そういった時代物、歴史物に苦手な読者に対する配慮もさることながら、タイトルに「新」の文字があるように、馬琴版とはちがった展開をみせている。
 まず、伏姫の話からはじめるのではなく、いきなり八犬士のエピソードからはじめる。そして、道節、毛野、荘助、親兵衛のエピソードを変更し、悪役に妖之介、幻人、毒娘の三人をオリジナルキャラクターとして登場させている。

 一方、信乃、現八、小文吾、大角のエピソードは馬琴版に近い。微妙な違いがあるものの大筋は同じだ。
 特に信乃のエピソードは、ほぼ馬琴版と同じ。馬琴版では最初に登場する犬士であるため、この犬士の人気がその後の八犬士の人気を左右しかねない。
 馬琴版では幼少期から書かれ、荘助登場、浜路との恋物語、道節登場、現八との決闘、小文吾、新兵衛の登場まで信乃が主人公ではないかと思われるぐらい、信乃がメインで物語が進む。
 それぐらい重要な犬士であり、馬琴版を読もうとした読者が最初に記憶にとどめる犬士でもあるため、あえて本書でも変更しなかったように思う。

 馬琴版には馬琴版の面白さがあるとおもうし、本書のオリジナルエピソードもこれはこれで面白いとおもう。どちらがいいとはいい難い。
 ただ、大角のエピソードについては馬琴版の方が理にかなっている。ネタバレになってしまうが、マタタビを集めてくる時点で大角の父親が化け猫だったという見事な伏線になっているのに対し、本書では巨大蜘蛛になっている。
 本書は映画化されているが、映画化することを想定して蜘蛛にしたのか、化け猫では恐怖感が出ないとおもったのかそのあたりは不明だが、マタタビを集めてくる行為が意味をなしていない。設定をただ借りただけになってしまった点が悔やまれる。
 他にも赤い月が効果的に使われている点は面白かったが、犬士たちが集まる理由が、運命というのはどうだろう。初見時は気にならなかったが、再読時にはご都合主義に思えてしまった。

 今回は再読ということもあって、馬琴版との違いを確認しながら読み進めていたため大変だったが、本書で初めて八犬伝に触れる読者は読みやすいと思う。
 上巻に関する感想はこんなところだ。

【下巻感想】

 ここからは下巻の感想を書いていこう。
 下巻は馬琴版とはちがう完全オリジナルストーリーとして話が進む。

 静姫登場。浜路の話。八字文殊菩薩からはじまる昴星の里の話に光の一族。館山城での決戦。

 それでは、くわしく書いておこう。
 まずは、静姫登場。この設定、山田風太郎「忍法八犬伝」の村雨に相当する。「忍法八犬伝」の方が先なので、本書がパクッたような感がしないでもないが、村雨よりも静姫の方が神秘的だ。
 馬琴版では伏姫にその神秘性が宿っているが、本書では伏姫は物語から退場しているので、静姫にその神秘性を宿らしたと思われる。
 静姫登場とともに、親兵衛も登場。青春恋愛小説のような展開をみせる。「俺たちの旅」「金曜日の妻たちへ」といったドラマを手がけた鎌田敏夫作品らしい。

 次に馬琴版では早々に物語から姿を消す浜路の話が最後まで書かれている。この浜路のエピソードは悪人を描くためにあったようにしか思えない。下巻になると助平な話はもうどうでもよくなってくる。上巻が「闇の巻」という副題がついているため仕方なかったとはいえ、下巻では正直ウンザリだった。
 馬琴版では浜路とそっくりな姫が登場し信乃と結ばれる。今から思えばいかにも男性目線の都合のいい展開だが、韓流ドラマの火付け役ともなった「冬のソナタ」も同じような展開だ。
 女性目線からしても好きな人とそっくりな人と再会するのは心踊り、胸はずむ展開なのだろう。

 次は信乃、現八、小文吾、荘助が一つのグループ。道節、毛野、大角が一つのグループとして行動をともにする点。
 馬琴版は八犬士が離合集散を繰り返し、なかなか八人が揃わない。ネットやスマホもない時代の物語なので、当然といえば当然なのだが、そのため物語が先へ進まない。
 一方、本書は信乃グループと道節グループで行動する。そのため、物語の展開がスピーディだ。
 上巻の感想にも書いたが、運命によって出会う犬士をご都合主義すぎると思ったのか、下巻では笛に導かれたり、北斗七星の謎解きをしたりして出会うようにしてある。
 特に心の清いものにしか聞こえない笛の音は、馬琴版にも「忍法八犬伝」にも登場しない本書オリジナルだ。この笛の音。実に効果的に使われている。

 次は八字文殊菩薩からはじまる昴星の里の話。
 これはもう高田衛の「八犬伝の世界」のパクリ。北斗七星と関連づける点も全く同じだ。初見時は「おぉー。」と唸っていたが、「八犬伝の世界」を読んでしまうとそのまま流用しているのがよくわかる。
 本書を発表する以前に「八犬伝の世界」がすでに世に出ていたからだろう。高田衛氏の解釈とは別解釈を新しく構想するにはいたらなかったとみえる。
 そのままではただの流用になってしまうので、光の一族という設定が登場する。この光の一族。どこからきたのか、いつからいたのかよくわからない。
 八字文殊菩薩の説明がくわしく理にかなっている分、光の一族に後付け感がありありだ。
 馬琴版が善と悪の戦いであった点を、光と闇の対決にするため、わざわざ登場したようにもみえる。
 それでも、「仁義礼智忠信考悌」の意味を現代風にアレンジしている所は素晴しかった。
 特に素晴しいのは「忠」と「義」だ。
 忠義という言葉に代表されるように「忠臣蔵」のような主君や全体のために個人を犠牲にする、いわゆる滅私奉公のようにおもわれがちなこの二つを本書では
 「忠」は「自分の仕えるものの心を知り」とし、
 「義」を「人として行うべき道を知り」としている。

 ここまでくわしく書いてきたが、どれも面白いエピソードで一杯だ。
 読者によってはここまで剣と魔法のRPGゲームのようにも思えるかもしれないし、光の一族がウルトラマンのように思えるかもしれない。あるいは、本書と同時期に映画化された「幻魔大戦」のように思えるかもしれない。
 なにを連想するかはさておき、物語はいよいよ、館山城での決戦へと進んでいく。八犬士が集合して、敵の本拠地に乗り込み、さらわれた姫を救出するという定番の展開がたまらない。
 さらに光の弓矢を放った静姫が宙を舞う場面など秀逸だ。
 スーパー歌舞伎、ピーターパンの舞台、アイドルのコンサートなど宙づりは見せ場の一つだが、本書の宙を舞う静姫を想像のおもむくまま楽しんで欲しい。
 はてさて、光と闇の対決のゆくえやいかに。それは、読んでのお楽しみだ。

【余談】

 読書中に連想したどうでもいいことをとりとめもなく少し。

 私事で恐縮だが、八犬伝は信乃の物語だとおもっている。そのため信乃の物語が一時途絶えてから登場する毛野、大角の印象がうすい。後半親兵衛がどんなに活躍しても後付か、外伝のように思えてしまう。そもそも八人ではなく五人ぐらいがちょうどいい。

 作中赤い月がでてきて、「エヴァンゲリオン」みたいだが、こちらが先。というより、赤い月は不吉なものとして古今東西の神話、民話、伝説、物語にはよく出てくるので、とりたてて騒ぐほどでもないだろう。
 また、山下城が七日間燃えるのも「風の谷のナウシカ」の火の七日間みたいだが、キリスト教に七日で世界を作った話があるので、これまたとりたてて騒ぐほどでもない。

 北斗七星にまつわるエピソードも「北斗の拳」みたいだが、こちらが先。というより、三国志演義が先。八犬伝のモチーフの一つが三国志演義であることを考えるとまたまた騒ぎたてるほどでもない。
 ちなみに「北斗の拳」に出てくる死兆星は三国志演義にでてくる「そえぼし」のことに違いない。孔明の死期を予感させるために効果的に使われる星のことだ。

 今時、八犬伝でもないような気はする。たまたま手元に八犬伝関連の本、
 山田風太郎「八犬伝」。
 山田風太郎「忍法八犬伝」。
 鎌田敏夫「新・里見八犬伝」。
 高田衛「八犬伝の世界」。
があったので、こうして書いているだけだ。
 「ハリーポッター」が毎年のように公開されている頃なら、和製ファンタジーの傑作として需要があったかもしれないが、「ハリーポッター」も完結してしまい、一時のファンタジーブームも去った感はぬぐえない。
 ただ、CG技術が進歩したので、昔は映像不可能な場面もいくつかは映像化できるのではないかと思ったりもする。
 また、古典的名作はいろいろな作品の元ネタになっていることが多いということを書きたかったというのもある。

 うーむ。とりとめがなくなってきた。だらだらと長く書いても仕方ないので、ここらでおわるとしよう。


以上が再読時の感想です。

■映画「里見八犬伝」について

ここでは、映画「里見八犬伝」について書いていこうと思います。

私が八犬伝にハマるきっかけともなった映画「里見八犬伝」

本作は1983年公開ですが、公開前には「角川映画超大作」と銘打って、TVCMが大量に流され、前売り券が飛ぶように売れたと言います。
そのときの感想を書いていこうとおもいます。

といっても数十年以上も前の作品なので、細かい所まで覚えていません。

覚えているのは、角川超大作。というわりに、B級作品になり下がってしまった。ということ。
というのも、最終決戦で主人公の静姫が大蛇にさらわれるシーンがあるのですが、それがお粗末なのです。

歌舞伎でも、もっとマシな芝居をするのではないかと思えるぐらいのダメダメっぷり。静姫が自ら大蛇を身体にまきつけているようにしか観えないのです。

その後ワイヤーアクションで、大蛇につかまれた静姫が飛んでいきますが、ワイヤーアクションが市民権を得るのは、4年後の1987年「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」まで待たなくてはなりません。

早すぎたのです。

そして、いかにもセットとわかる洞窟で行われる最終決戦は、観ていてつらいものがあります。また「ガンダム」人気が最高潮のころで、勧善懲悪は過去のものとなりかけていました。

遅すぎたのです。

そういった時流に抗うべく、「時代劇にロック」というキャッチコピーで英語の曲を主題歌に抜擢。
本来、年寄りばかりが観るとされる時代劇に、若者人気を取り込もうと製作者側も必死です。
当時は、英語の曲を主題歌にするのも珍しく、新鮮だったのですが早すぎたのでしょう。

エンタメが大ヒットするには、大衆の需要とマッチしなくてはなりません。
それが実は一番難しいのですが。

前売り券が飛ぶように売れたのは、ウィキペディアによれば、前売り券を大企業に大量配布した。
という経緯があります。
前売り券は、映画館で映画を鑑賞して、はじめて映画館の収益になりますが、前売り券をもったままでは映画館には一銭も入ってきません。
それゆえ、映画館側からは、猛反発をくらい、角川映画は悪徳商法扱いされてしまいます。

それでもそれなりに人気が出たのは、キャストの顔ぶれとTVの力あってこそです。
主演の薬師丸ひろ子は、人気女優の名を欲しいままにし、映画でしか観ることの叶わぬ、貴重な「映画女優」でした。
真田広之も同様に、TVドラマに出演することの少ない「映画男優」でした。

そして本作はTVドラマではありませんでしたが、TVCMが嫌というほど流れていました。
TVの力は無視できません。
「南極物語」の大ヒットはTVCMのおかげです。
「踊る大捜査線」や「鬼滅の刃」はTV作品の映画化ですから、言うに及ばす、宮崎駿作品も日本テレビの度重なるTV放送の賜物です。

しかし、かくいう私は、本作以降、予告編やTVCMだけで映画館に足を運ぶのを辞めるようになります。

本作を鑑賞する前に原作を読んでいたのが失敗だったのかもしれません。
勝手に期待して、その期待にこたえきれなかったのです。

角川映画のキャッチコピーに「読んでから観るか、観てから読むか」というものがありますが、本作以降、「観てから読む」派になっていきます。小説や漫画で思い描いたこちらの勝手な想像を、正確に映像化できる映像作家など一人もいないのですから。

それでも原作を先に読んでも面白いと感じたのは「Wの悲劇」。原作と全く違います。ジャンルすら違います。それゆえ楽しめました。

主演の薬師丸ひろ子は本作の撮影中、体調不良で入院しています。それほどハードな撮影だったわけで、本作の駄作感は全てチープな特撮のためです。


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