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AlphonseのCINEMA BOX

管理人Alphonseが観た映画の感想を書いているブログ。

シン・ゴジラ特集


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■編外余禄

ここでは、これまでの観点からではなく、一映画作品として書ききれなかったことを思いつくまま書いてみようと思います。

連想作品。

庵野監督の代表作である「エヴァンゲリオン」は、多くのパクリが存在する作品といわれることがあります。
オマージュ、リスペクトと言い方は色々あるにせよ、本作にも他作品の影響が随所に見受けられます。

「エヴァンゲリオン」と1954年版が一番本作に影響を与えているのは間違いないのですが、巨大生物に命名する際、この際名前なんかどうでもいいという意見のある中、総理の「名前はついていることが大切だ」という台詞に「千と千尋の神隠し」を連想してしまいました。

また、「THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦」も意識していたのかもと思ってしまいましたが、これは考えすぎでしょう。
東宝の看板スターと大した特撮シーンもなかった作品と比べるのは酷なことです。

他には、「そろそろ好きにされたらいかがでしょう。」
この台詞に象徴されるように、庵野監督は好きにしたのでしょう。
この後、「ヤシオリ作戦」が展開され、「エヴァンゲリオン」の「ヤシマ作戦」と同じようなカット割とBGMで、庵野版ゴジラが展開されていったように思います。

女性の描き方。

「ガメラ3 邪神<イリス>覚醒」にも女性がでてくるのですが、樋口監督のせいなのか、庵野監督のせいなのかはわかりませんが、良くも悪くも女性が非常に個性的です。

「エヴァンゲリオン」では綾波レイがこれまでの女性キャラにはないキャラとして登場し、人気を博しただけに本作でも新たな女性キャラを創造しようとしたように思います。
成果は五分五分。
尾頭(市川実日子)は人気が出たようですが、パタースン(石原さとみ)はコメディエンヌになってしまいました。

ガメラも、本作も黙っていると非常に綺麗な方を抜擢するのですが、いかんせん芝居が。。。
監督の演出がわざとそうなっているのだとしたら、演じた役者さんが非難されるのは気の毒です。

画面構成。

ウィキペディアによるとスタッフリストに画像設計、イメージボード、画コンテと3つの役職があります。
どこがどう違うのかわかりませんが、ワンカットをどのように写すか、人物、ゴジラ、建物、兵器の配置を絵で表現したものではないかと思われます。
本来アニメ監督である庵野監督らしい映画作りですが、どうやら1954年版の頃から行われていたようで、特撮映画では必要な作業なのかも知れません。
その画面構成を「エヴァンゲリオン」のスタッフが大半手がけています。
そのため「エヴァンゲリオン」に似てくるのも無理ありません。

いくつか特徴的な画面構成を挙げてみますと、まず、エレベーター内を魚眼レンズで映したような画面。
これなどは実相寺監督や押井守監督の影響ではないかと勝手に解釈してしまいます。
「エヴァンゲリオン」では長尺で使われました。
大して仲の良くないアスカとレイが初めて二人きりになったシーンの筈です。
何かを言い出したいアスカと素知らぬ感じのレイを長い沈黙で描きます。
アニメーターの手抜きだという人もいますが、初対面でしかも相手のことがわからず二人きりになれば、最初はこんな感じの筈です。
しかもアスカはドイツ育ちなので、愛想笑いもしません。
実に良く出来たワンシーンだと思ったものです。

次に、背景を全面に出し、画面の片隅に人物を配置する画面。
アニメでは、人物を小さく表現することで口の動きを少なくし、作画の手間を省くことが出来ます。
「エヴァンゲリオン」では随所に出てきます。
小休止のような緊張感のないシーンのように見えますが、会話の内容は実に重要なことを話しています。

実はこの画面構成。本作が庵野、樋口コンビの最初ではありません。

平成ガメラシリーズ
帝都物語シリーズ
ローレライ

など、樋口監督作品のスタッフには必ずといっていいほど庵野監督の名前がクレジットされ、庵野監督作品のスタッフには必ずといっていいほど樋口監督の名前がクレジットされています。
ですから、平成ガメラシリーズも、帝都物語シリーズも、ローレライも必ず「エヴァンゲリオン」で観たような画面構成が出てきます。
お暇な方は探してみてください。

正攻法の作劇。

「エヴァンゲリオン」は敢えて肩透かしを食らわし続けた作品でもあります。
特にテレビシリーズは話が盛り上がって来た所でCMをはさみ、CMあけを期待してみると見事に肩透かしを食らわされて、一気にテンションが下がった状態から物語がまたスタートします。
しかも、敢えて盛り上がるであろう所を描きません。
受け手の想像に委ねたりします。
これは作品内の設定に関しても同じで、受け手の想像に委ねます。

観ている方は肩透かしばかりされるので、欲求不満がたまります。
これが、「エヴァンゲリオン」に賛否両論が巻き起こった原因の一つなのですが、肩透かしが見事に出来るということは、逆に言えば急所を見事につくことができるということでもあります。
もっと早く急所を見事についた作品を作っていれば、すぐに人気監督の仲間入りが出来た筈なのですが、なぜかしたがりません。
理由はわかりません。
今回の肩透かしは「まずは君が落ち着け。」
官僚なので冷静であるべきというリアリティを優先したのでしょう。
あるいは、危機対応時の大原則ということかもしれません。
ある意味新しいヒーロー像とも言えます。
感情に左右されることなく冷静に事態に対応します。

本作は1954年版や過去のゴジラシリーズというお手本が一杯あるので、そのお手本通りに進め、受け手の急所と思われる所を描ききりました。
冒頭30分に注力し、1時間経た頃に一度敗北、残りの1時間はただただ戦闘。
最後に紋切り型の結論を語り、ラストに次回作があるかもしれないという伏線を残して終わります。

正攻法で製作して改めてはっきりしたことがあります。
ゴジラがかっこよく見える作品にはなっていますが、泣いたり、笑ったり、怖くなったり、感情を揺さぶられる作品にはなっていませんでした。
頭でっかちになりすぎて、情報の海でおぼれそうになるきらいがあります。

ラストカットについて。

実は私はラストカットの尻尾のアップに、人型らしいものが映っているように見えませんでした。
ウィキペディアの情報やネットの情報で知ったぐらいです。

色々とラストカットについては憶測が飛んでいるようですが、単なる次回作への伏線でしょう。
次回作が製作されれば、その謎もはっきりします。
次回作が作られないで終わってしまった映画は数限りなくあるので、よくある思わせぶりな演出だと、私は思っています。

一時の特撮ブームとして。

1984年に公開された「ゴジラ」も本作のようにリニューアルしたゴジラとして製作されました。
その時の興奮と本作の興奮は少し似ているような感じもします。
1984年版の頃は、1954年版が伝説的存在で、それ以降は正義の味方。
子供の味方としてゴジラは存在していました。
ところが、1984年版で悪役として復活したゴジラは新鮮でした。

本作も前作から12年以上も経ているので、ゴジラを知らない子供達には新鮮に映ったはずです。
しかも、1954年版に近い骨太なストーリー展開であったことに、子供達が成長して再評価する頃、再びゴジラは日本に上陸するかもしれません。


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シン・ゴジラ特集


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■社会派作品として

本作は1954年版に勝るとも劣らない、多くの社会的メッセージのこもった作品として観ることができます。
その社会的メッセージについて、いくつか書いてみようと思います。

1954年版はビキニ環礁の核実験により第五福竜丸が被バクした事件が社会問題となっていたということもありますが、世界で唯一の被爆国である日本が反核を掲げる意味のメッセージも込められていました。
そして、戦後まもなく公開されたということもあり、ゴジラの襲来に備えて避難する人々の台詞からは、「また疎開。嫌ねぇ。」
なんて言葉も聞こえてきて、当時の大衆の暮らしを垣間見ることが出来ます。
また、映像技術の問題でモノクロ作品として公開されたことと、作品内でゴジラが放射能を撒き散らしたり、核実験の副産物ということも相まって、今観てもゴジラは魑魅魍魎、百鬼夜行の如き怪獣としてみることが出来、核の脅威の象徴であり、核の被害者であり、人類に仇なす恐怖の象徴でありえます。

震災後の復興に対するメッセージ。

本作のゴジラも1954年版と導入部においては違いありません。
核の脅威の象徴であり、核の被害者であり、人類に仇なす恐怖の象徴です。
もっとも大きな違いは東日本大震災という天災と、福島原発事故の人災の後に作られた最初のゴジラということです。

後は、東日本大震災と原発事故をどう捉えるかによってこの作品の評価は大きく異なります。
震災はもう既に過去で、無縁の人には、これまでと同様のゴジラ映画に見えるでしょう。
逆に、震災は現在進行形であり、忘れることの出来ない人には、再生への祈りのこもった作品に見えるでしょう。

人類批判。

数多くのSF作品のテーマとして掲げられる人類無能、暴君説。
限りある資源を無尽蔵に浪費する無計画性や、無秩序性。
縄張りを確保するためや一時の感情だけで、同属まで死に追いやる他生物にはない残虐性。
海外のSF小説で手垢が一杯ついているテーマですが、今だにSF作品と名のつく映画作品には、ここぞとばかり語られる念仏のようなお題目です。
私などは食傷気味で「わっ。また出た。」と思ってしまい、同じSF作品でも「時をかける少女」のような作品の方が面白く思えてしまいます。

政府描写。

縦割り行政による縄張り意識や、何をするにしても会議で決定する合議制。
非常にフットワークが悪くなるものの、これが今の日本のシステムなのです。
それが嫌なら独裁者に権力を集中させればよろし。
政党の名前もあくまで「保守第一党」としか字幕では紹介されておらず、やれ「民自党」だのなんだのとありそうな名前にしていません。
政党の名前など似たような名前が一杯あるので、数年後には架空の名前が実在しかねないからでしょう。
「機動警察パトレイバー2 the Movie」では前半延々政治の話をしていて退屈極まりなかったのですが、本作は災害時の政府の対応を観ているようで、こちらの方が数段面白いです。

抗議デモの最中も不眠不休で、にぎり飯とカップラーメンで風呂にも入らず、ゴジラ対応に追われている政府官僚。
アニメ製作現場のような感じがしないでもない。
それはともかく、「AKIRA」のように、私利私欲を肥やすことしか頭にないステレオタイプの政治家ではなく、未曾有の災害に対応する真摯な官僚をヒーローのように描いています。
これまで、日本の映像作品では政治家は悪者でしかなく、政治を語ることはタブー視されてきたような風潮があるのですが、これも2016年という時代の要請なのでしょう。

日本批判と日本贔屓。

ここは鋭い所をついています。

東京第一主義。
合議制による意志決定。
米国の属領化。
能力主義よりも年功序列主義。
個性が発揮しづらい閉鎖的な社会。

と前半は日本をやたら悪く描いているのですが、これも作劇方法の一つ。
というより恋愛の定番テクニックですなぁ。
非難ばかりしている人が、たまに褒めるといい人のような印象になり、逆に褒めてばかりいる人が、たまに非難すると悪い人のような印象になる。
所謂「ツンデレ」というやつで、心理学では常識です。
本作では前半に日本を非難していながら、後半は褒めまくります。
要約してもいいのですが、作中の台詞そのままのほうが気持ちが伝わると思うので、そのまま取り上げます。

「この国はまだまだやれる。そう感じるよ。」
「次のリーダーがすぐに決まるのが、この国の長所だということがよく分かった。」
「我が国では人徳による王道を行くべき。」
「日本というものは危機ですら成長する様だな。」
「この国は好かれてるわね、空軍も海兵隊からもサポート志願者が続出よ。」
「諦めず、最後までこの国を見捨てずにやろう。」
「この国には、有能な若い人材が官民に残っている。」
「スクラップアンドビルドで、この国は伸し上がって来た。今度も立ち直れる。」

これを震災の傷を負った人が観て感動しない筈がない。
観客のハートをこれまた鷲づかみにして離さない。実によく出来ています。

国際情勢。

1954年版にはなかった、国際社会の中の一員として日本が描かれ、ゴジラに対し日本のみならず多国籍軍が出動する事態にまで発展します。

「エヴァンゲリオン」が世界系(私とあなたの二人だけの世界。転じて狭い世界観だけで描かれる作品のこと。)
という言葉で時に揶揄されるのを知ってか知らずか、アメリカ、中国、ロシア、フランス、ドイツの先進5カ国が登場してきます。
主に登場するのはアメリカで、フランスとドイツが協力的な立場をとっています。

過去のゴジラシリーズにも、米軍や他の先進国が登場していたかもしれませんが、私は全てのゴジラ作品を観ていないのでよくわかりません。

本作では日本とアメリカの関係が皮肉っぽく描かれます。
日本に無理難題を押し付け、自分の都合の悪いことには蓋をする。
また、東洋の辺境の小さな島国としての認識しかない。

これはある意味仕方のないことです。
日本では世界地図の真ん中に日本が描かれますが、アメリカは真ん中に北米大陸が、イギリスは真ん中にグレートブリテン島が描かれます。
日本のことを極東といったり、アラブ諸国を中東といったりするのは、イギリスからみて東の端に日本があり、アラブ諸国が東の真ん中にあるからです。
モルワイデ図法で描かれた地図だと日本は本当に小さな小さな島国になってしまいます。
そういった地図ばかりみていれば、日本を東洋の辺境の小さな島国として認識しても無理はありません。

反核。

多国籍軍による核攻撃が決定してからは、流石に重苦しい雰囲気になります。
ハリウッド映画ではゾンビを倒す際など、軍で収拾できない事態に陥った場合には、すぐに核攻撃を決定してしまうのですが。

そこは反核の象徴でもあるゴジラ。

日本政府も、にわかには核攻撃を認めたがりません。
矢口(長谷川博也)や里見総理(平泉成)が尽力します。

自衛隊描写。

庵野監督が自衛隊経験者ということもあるのか、実にリアルに描かれています。
これまでのアニメ映画や、他の戦争映画なら、現場から指揮所までの情報伝達はせいぜい一箇所の中継で終わる所を、上官から現場へ、現場から上官へクドイくらい逐一伝達されていきます。

また、過去のゴジラシリーズや「連合艦隊」などの太平洋戦争を描いた作品の影響だと思われますが、登場する兵器全てに字幕を出しているので非常にわかりやすい演出にもなっています。
例えば、爆弾MOPIIが何であるかすぐにわかります。

しかもアメリカ同時多発テロの際、人命救助に奔走した消防士がヒーロー扱いされたように、本作では自衛隊が日本を守る最後の砦として非常にかっこよく描かれています。
もちろん西郷(ピエール瀧)の台詞に象徴されるように

攻撃だけが華ではありません。

都民350万人の避難誘導していたのは誰か?
避難所で炊き出しを行っていたのは誰か?
一人一人をつぶさには描かないもの、しっかりと映像化されています。

大衆描写。

1954年版には戦中の疎開の再来とばかり、嘆く大衆が出てきます。
本作では、怪獣映画のお約束として逃げ惑う群集は登場してきますが、平成ガメラシリーズのように一被害者をメインに物語を作ったりしていません。
名も無い群集として大衆は登場します。

「疎開って何?」と疎開という言葉すら死語になり、ゴジラ上陸時にはスマホ片手に動画を取りまくり、ネットに書き込んで騒ぐ姿が出てきます。
これも2016年という時代を象徴しています。

経済描写。

350万人の避難により、西日本の地価は高騰、日本の株価は暴落。
失業者は街にあふれ、円安が続く。
復興には金がいる。海外からの援助が必要だ。
理想論だけでは復興は出来ない。

お金のことを映画で描くのは無粋として、タブー視される傾向があるにも関わらず、敢えて経済用語も取り入れてリアリティを追求しています。

総括。

こうして文章にしてみると、いかにも台詞だけの大惨事のように思えてしまいます。
映像だけでメッセージを伝えてみせた「千と千尋の神隠し」とは大違いです。
東日本大震災の記憶が風化していないからこそ成立した作品ともいえます。

しかし、これだけのメッセージを2時間の映画に集約するには台詞を連呼させるしかないでしょう。
「日本沈没」がテレビドラマになったように、映像も込みで大惨事を描くならテレビドラマにする他ありません。

シン・ゴジラ画像
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■SFとして

ここでは、SF作品として本作について書いていこうと思います。

ゴジラ登場後、東京が壊滅的被害を受けた際は、1973年公開の「日本沈没」を思い出してしまいました。
「日本沈没」ほどの悲愴感がないのは「巨災対」のメンバーの誰もが一癖もある面子ばかりだからでしょう。
まるで「アルマゲドン」の様でもあるし、「七人のおたく」の様でもあります。

予定調和のような専門家ではなく、突飛な発想を持った人物を配置することで、本来存在しない巨大生物をあたかもとてつもない生命体であるかのように描き出しています。

実際のところは1954年版のリメイクでしかありませんが、庵野、樋口監督コンビとしては、「ガメラ2 レギオン襲来」の再現といえます。

作中ではゴジラの細胞片を解析したデータを分析するだけで、詳細なことは何もわかっておらず、憶測が飛び交っているだけです。
ゴジラといえば放射能という定番の設定も、最初は「巨災対」のメンバーの憶測から始まり、それが、実際のデータとして数値化され確認されただけに過ぎません。

全てが万事この調子で進んでいくので、説得力に欠けるものの非常にテンポがいいです。
小説ならば、学術用語満載になる所ですが、敢えて難しい科学技術用語は避けたように思います。
それでも、会話が早口すぎて何を言っているのかわからないシーンがあったことも確かですが。

そもそもゴジラが出てきた時点でSFとして成立していて、未来予知的なSF作品とは一線を画します。
後はゴジラをいかに科学的に肉付けしていくかがSF的な醍醐味といえます。

海洋巨大生物でありながら上陸とともに急速に進化し陸上生活に適応。
巨体を支えるためのエネルギー源は憶測でしかなかったが核分裂。
解析図を分析することで、細胞膜を通し細胞内の元素を必要な分子に変換してしまう。
つまり、水や空気があればどこでも生きていける生物として結論付けられます。
まるで、植物のような動物。(なんだか「ビオランテ」みたいですなぁ。)
その後の解析から細胞膜の活動を抑制する微生物の分子構造が判明。

2時間で決着をつけなければならない映画にとって、ありがちなご都合主義的な展開。
ゴジラの細胞片と牧教授(岡本喜八)の残した解析図だけで、ゴジラのエネルギー源、生命維持機能、果ては退治方法まで、一気に判明してしまうのですから。出来すぎといえば出来すぎです。
しかも、最後には放射能の無害化が3年程度で終わってしまうなんて。。。

しかし、牧教授はこうなることを予見して行動していた。
というのは「機動警察パトレイバー」の真犯人のようにも思えます。

こうやって文章にしているからツッコミたくなるのですが、観賞中は「巨災対」のメンバーの台詞を追いかけるのに必死。
特に初見ともなればその傾向はますます強くなり、上映時間の関係で会話は早口になり、ツッコミを入れるタイミングがなくなり、観客は思考停止状態に追い込まれます。

元々ゴジラ自体が存在しないのですから、ツッコミを入れること自体、無意味といえるでしょう。

そんな中、秀逸なのはゴジラの解析図の謎を解析していく過程。
「なんでそもそも、データじゃなくて紙なんだ。」という台詞からすぐに私は

「折り紙ではないのか?」

とピンときたのですが、その後の台詞がまたそれを裏付けするかのようにこう続きます。
「なんか、折れ線みたいっすよね。」
折り紙に折れ線という折り繋がり。
他言語でこれをどう翻訳するのか別の興味まで沸いてしまいます。
そして更に念を押すかのように折鶴のワンカット。

解析図が折り紙の展開図のようになっていたのでしょう。
解析図を折ることでゴジラの生態がより鮮明になっていきます。

その後のゴジラ凍結作戦も「ヤシオリ作戦」と命名され、「巨災対」のメンバーが椰子折りしたような折り紙を持っているワンカット。
映像からは折り紙から命名されたように私には見えました。

実はこの「ヤシオリ」。
「ヤマタノオロチを眠らせるために使用したお酒ヤシオリ」が由来。
らしい。
「帝都物語」の頃なら衒学趣味に走って誰かが延々と講釈を述べる所ですが、作中では一切触れていません。

そのため「ヤシオリとは何だろう?」
と興味を持って調べた結果、実はこういう意味があった。
という仕掛けの方がインパクトがあって面白いです。

公開から一年以上経った頃に、この文章を書いているので、
「ヤシオリ」とは「ヤマタノオロチを。。。」が由来。
という情報が先に検索されてしまい、そういった感動は得られませんでした。

これまた、ハリウッド方式を真似て始まった本作でしたが、折り紙という日本的な謎解き方法で謎を解明してみせる。
まさに日本版ゴジラの真骨頂ともいえる展開でした。


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■特撮怪獣映画として

「巨災対」が設置されてからは特撮怪獣映画として描かれます。
ここでは、ミニチュア、CGといった特撮映像について書いていこうと思います。
以下に色々書いていますが、すべてはこの一言に尽きます。

「ゴジラかっちょえー。」

いかにゴジラを格好良く見せるか。
その一点にのみスタッフが精魂傾けた作品といえます。
それでは、作品のストーリーに沿って観ていきましょう。

冒頭(東京湾)。

最初に登場するのは尻尾。
ウィキペディアによると第1形態から第5形態まであるようですが、初見ではせいぜい2種類の形態しか確認することが出来ません。
コアなファン向けの詳細設定といえるでしょう。

最初の上陸。

第2形態が河川を遡上する際、河川の船がミニチュア(だと思う)で作られているのですが、「巨神兵東京に現わる」で敢えてミニチュア製作にこだわっただけに、庵野、樋口監督のこだわりを感じました。

「巨神兵東京に現わる」の頃はふざけた映画を作ったものだと酷評したのですが、今から思えば東日本大震災が発生する前から「巨神兵東京に現わる」の製作を始めていたのなら、庵野監督にツキがなかったという他はありません。
「THE END OF EVANGELION」「もののけ姫」と同じ時期に公開されましたし、今回も「君の名は。」という大ヒットと同じ年の作品になってしまいました。
同時期に大作が生まれ、それを越えられないようです。

ところで第2形態がとても獰猛な怪獣とは思えない人をくったような造形の巨大生物なので、
「ゴジラ以外の怪獣が出て来るのではないか?」
と思ったのですが、予想に反して、この妙ちくりんな形の巨大生物がゴジラなのでした。

その後、ゴジラがモスラ同様に変態を遂げお馴染みの姿になります。
一瞬モスラのように繭にでもなるのかと思いきやCGをふんだんに使って一瞬で姿を変えていきます。
最近のハリウッド映画はCG満載なので、観客も下手なCGでは納得してくれないと思うのですが、十分に観賞に耐えうるCGでした。

あえてミニチュア製作にこだわるのもCG技術ではハリウッドにかなわないからかもしれません。
または、CG満載映画に食傷気味の観客を狙っていたのかもしれません。

二度目の上陸。

二度目の上陸の後、お馴染みの伊福部昭氏の楽曲と共に東京駅に向かうことになります。

この時の、ゴジラの遠景が美しい。

まるで、緩やかな富士山の稜線を見ているような遠景です。
着ぐるみでは再現できない素晴しいクオリティでした。

テレビがアナログからデジタルに変わった最大の点は画面の縦横比が9対16になったことです。
ですが、それを意識させる映像作家は残念ながらいませんでした。
元々映画のスクリーンサイズが9対16だったためそれをそのまま採用したらしいのですが、テレビを観て育ち、テレビ作品ばかり作っている映像作家には9対16の縦横比は横に余分な空白が出来るだけで、面倒な規格変更でしかなかった筈です。
ところが本作では、その横幅にあうように尻尾も込みで映し出されます。
多少尻尾が長すぎるような感じもしますが、実に優雅に進むゴジラに感動しました。

また、上陸に伴い各ブロックごとに停電が発生するのも新鮮でした。
アメリカでは一箇所停電すると街全体が停電してしまうらしいのですが、この辺の停電に関する設定もおそらく現実の通電システムを踏襲しているのでしょう。
1954年公開のゴジラ第1作を彷彿させるぐらい暗い映像で、何が映っているのかわからなくなるようなシーンでは劇場に足を運ぶべきだったと悔やまれました。

自衛隊と戦闘(タバ作戦)。

自衛隊との戦闘は1954年版を彷彿とさせる戦車隊が火を噴きます。
1954年版は戦車がミニチュアでしたが、自衛隊の撮影協力により本物の映像やCGがふんだんに使われています。
急旋回する戦車の砲塔など迫力満点です。

またまたハリウッド映画との比較で申し訳ないのですが、ハリウッド映画では古くから飛行機やヘリが惜しげもなく登場してきます。
日本では自衛隊に関して風当りが強かったため長い間自衛隊の撮影協力が得られず、模型の戦闘機や秘密兵器がゴジラを攻撃するのが常でした。
私の記憶では「戦国自衛隊」で装甲車が出てきたぐらいです。
その装甲車も本物かどうかよく知りません。
ところが、本作では攻撃ヘリ、戦車、高射砲、駆逐艦などがCG合成かもしれませんが所狭しと登場します。
軍事オタクにはたまらない映像だらけでしょう。

米軍の登場。

自衛隊の攻撃は失敗に終わり米軍の登場。
米軍の攻撃でやっとゴジラに傷をつけることに成功した途端、ゴジラは火(放射線流)を噴きます。
私などは

「負けるなゴジラ」

と応援したくなったのですがこれまでのゴジラと違い口からだけでなく、背中や尻尾からも攻撃でき、しかも最初は不完全燃焼なのか、赤い火であるにもかかわらず、最後は巨神兵のごとくレーザーのような光線を発します。
これはもう庵野監督の趣味の世界で巨神兵をイメージしたのでしょう。

また、口の中を「エイリアン」のフェイスハガー(顔に取り付くエイリアンの幼生)のように丸い形状にしているのも流石。
テッポウウオも同じように直線的に水の噴射を行うことが出来ますが、確かテッポウウオは管のような器官から水を噴射していたので、ゴジラもそうなっている筈ですが、もしかしたら丸くなって何かを噴射する生物がいるかも知れません。

よく出来ているのは攻撃されて傷を負うまでゴジラは一切攻撃していなかった。ということ。
生物として攻撃されるまでは絶対に攻撃してきません。
威嚇する必要もないのか雄叫びを上げることもしませんでした。

休眠状態。

放射線流を噴いてガス欠したのか、休眠状態になります。
場所は東京駅。これが後の伏線になります。
作品としては小休止。
ただ、バリヤーともいえる監視システムが稼動しており近づく飛行物体はことごとく攻撃される模様。

休眠中とはいっても死んでいるわけではないので、糞だかなんだかよくわからない老廃物らしきものが落ちていたり、表皮の欠片が落ちたりするのはおそらく垢か何かなのでしょう。

これもある評論家が指摘していたことですが、ハリウッド映画では開始1時間するとド派手な戦闘が行われ、その戦闘で主人公は敗北します。
この作りはジャッキー・チェンの「酔拳」と同じ。
「酔拳」の作り方をハリウッドが真似たのか、その逆かは知りませんが、「ロッキー」「ダイハード」もこの体裁を取っているらしいです。

このことに70年代から2000年代に至るまで日本映画の監督の何人が気づいていたのか、日本映画は独自のストーリー展開で妙に理屈っぽくて、暗い作品ばかりだったように思います。
また、70年代から2000年代はスピルバーグ監督作品を筆頭にハリウッド映画がやたらもてはやされていた時期。
スピルバーグ監督作品の作り方を他のハリウッド監督が真似、それが普遍化したからこのような分析が出来るのかもしれません。

それはさておき特撮怪獣映画としては戦闘シーンばかりでは製作費が際限なくかさんでしまいます。
人間ドラマとしての体裁を整えることができ、敗北後の対応策も検討できるためゴジラの休眠はいわばお約束。

子供の頃は戦闘ばかりあってもいいのにと思っていましたが、やはりそれでは殺伐としすぎるし、メリハリがなくてクライマックスのインパクトが薄れてしまいます。
作劇としても必要不可欠な休眠状態といえるでしょう。

その間に東京都の住民350万人の避難を映像化しています。
輸送用ヘリも戦闘時と同じくCG合成か本物でしょう。
また高速道路の渋滞は実にリアルでよく出来たCGでした。

ヤシオリ作戦。

ゴジラの血液を固めて動けなくしてしまうという「ヤシオリ作戦」。
ウィキペディアによると「ヤシオリ作戦」の由来は、ヤマタノオロチを眠らせるために使用したお酒ヤシオリからきているらしいのですが、映像的にはゴジラの解析図をヤシのように折ったことから命名されたようにも見えます。

作戦はこれまたお馴染みの伊福部昭氏の楽曲と共に開始されます。
まずは無人運転による新幹線爆弾。
子供だましといってしまえばそれまでですが、巨大ロボットやどこぞの特命機関が作った秘密兵器よりもずっと現実味を帯びています。

ただ、ゴジラをメインに映像化したためと、ミニチュアによる新幹線だったため迫力に欠けました。
もっと電車を凶器のごとく重厚に映すことも可能だった筈ですが、JRから許可が降りなかったのでしょう。
それでも、1954年版では手に持たれ破壊されるだけだった電車を本作では武器として使うのは新鮮でした。
東京駅でゴジラが休眠していたのも偶然ではなく、実は必然だったという。
ゴジラの登場する所にまで注意が行き届いていて驚かされます。

特筆すべきは高層ビル群の破壊。
1977年に公開された「スターウォーズ」で多くの映像作家は度肝を抜かれましたが、この頃はまだ、爆発のエフェクトがCGで描かれているだけでした。
やっと最近日本のテレビドラマでもこれくらいの爆発エフェクトが苦もなく表現できるようになったので、50年ぐらい日本はハリウッドのCG技術に遅れをとっていたということになります。
後に「スターウォーズ 特別編」でCGが追加され爆発だけでなく爆発による破片も描かれるようになりました。
これも1999年に公開された「スターウォーズ エピソード1 ファントム・メナス」の頃なので、15年以上も前になります。
そのクオリティにやっと日本の特撮技術が追いついたと見るべきでしょう。
特にビルが傾く際、ビル内のオフィス機材が床を滑るワンカットは秀逸でしたし、ゴジラに覆いかぶさるように高層ビルが倒れていく際、窓ガラスが一枚一枚丁寧に描かれていて、庵野監督らしい病的なまでのこだわりと、
「金かかってるなぁ」
と感じました。

血液凝固剤をクレーン車でゴジラに飲ませるのも実にレトロ。
1954年版にはなかったと思いますが、実際に運用されてしかるべき処置です。

一度は失敗しかかるも二の手、三の手を用意して最後は失敗したのではないか?
と思わせる演出も見事。

「エヴァンゲリオン」では、横からのアングルで政府高官を映していましたが、「タバ作戦」では政府高官が銀幕(中継される映像)を食い入るように見つめ、今回の「ヤシオリ作戦」でも政府高官が銀幕を食い入るように見つめています。

これも、素晴しい演出で、まさに固唾をのんで行く末を見つめている政府高官達と同じ心理状態に、観客の心理を誘導しているのです。

「ヤシオリ作戦」が成功し、目標(ゴジラ)が完全に沈黙しても敢えて歓声をあげない演出も素晴しい。
ハリウッド映画なら歓声をあげ、喜び抱きあうシーンをメインに持ってくる所ですが、一部の自衛隊員が喜んでいるだけで、そこはシニカルに冷静に淡々と物語は進んでいきます。

思うに、ゴジラを倒すことよりもゴジラに破壊された街並みを復旧することがメインだからでしょう。
そして冒頭ではハリウッド映画を意識した作りだったにも関わらず、最後は日本版ゴジラの面目を保ったと観ることも出来る作品であり、ゴジラを倒した後は現実の物語に戻すため、敢えてBGMが一切ないことも付け加えておきます。


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■感想

映画開始から、「巨大不明生物特設災害対策本部」(以下「巨災対」)が設置されるまでの数分間は、通常の人間ドラマとして描かれています。
BGMもなく淡々と政府が対応する姿を綿密な取材を元にあたかも現実であるかのように描き出します。

ところが、自然災害と思われた事象が、巨大生物による事象であると判明し、「巨災対」が設置されてからは虚構のお出まし。
BGMも「エヴァンゲリオン」でお馴染みのBGMが引用され怪獣映画として描かれていきます。

ここまでおよそ30分。
CINEMA BOXに映画を登録するまでに数多くの映画を観ていて気がついたことがあり、このことはある評論家も指摘していることですが、

ハリウッド映画は冒頭の30分でその作品の出来が決まります。

試しに大ヒットしたというハリウッド映画を何でもいいから冒頭30分だけ観れば、私の書いてあることがよくわかる筈です。

冒頭の30分を観て面白いと感じない映画は、その後を観ても大して面白くありません。
これは冒頭の30分に主要な登場人物や主人公は誰で、いつの時代の人で、今後作品の中で何をして、どうなってしまうのか?
その後の気になる展開が全て冒頭の30分に凝縮されているからなのです。
逆に、序盤は面白いのにヒットしなかった作品は、結末に不満の残るものが多いです。

私事で恐縮ですが、こうした思いを抱くようになったのも香港映画を数多く観てきたおかげでしょう。
私が観ていた頃の香港映画はツイハーク監督作品が多く、そのツイハーク監督がハリウッドを意識していたから、冒頭30分をいかに面白くするかに、注力していたように思います。
にもかかわらず、香港映画が日本でヒットしなかったのは、ジャッキーチェンが活躍の場を香港からハリウッドに移したり、香港が中国に返還されて中国の検閲が厳しくなってしまったというのも理由ではあるけれど、結末に不満の残るものが多く、物語も破綻していたからです。

なぜこんな事を書き出したかというと、この作品以前に「GODZILLA ゴジラ」が公開されていたからです。
本作の製作も「GODZILLA ゴジラ」の世界的な大ヒットを受けたもので、当然「GODZILLA ゴジラ」を意識し、ハリウッド方式の冒頭30分に注力したのだろうと思ったからです。

実際に冒頭の30分を観てみると退屈することなく、どんどん物語に引き込まれていくように作られています。
普通なら情報量の多さに辟易し、政府高官の発する専門用語に内容が全く理解できないはずですが、東日本大震災で多くのニュースを見てきた日本人にとって、政府高官の専門用語も日常会話のような感覚で見ることができ、「エヴァンゲリオン」の監督作品ということもあって、「エヴァンゲリオン」で情報量の多さに免疫のある観客はすぐに作品の中に入っていくことが出来ます。

これは私見でしかありませんが、総理大臣(大杉漣)を観客として描いている演出も作品に入り込みやすくしている点です。
総理大臣を権力の象徴のような暴君ではなく、どこにでもいそうな気のいいオジサンとして描き、側近たちは銀幕(総理)に向かって話しかけてきます。
それはあたかも観客に語りかけるように、

「あなたならどうします?」

と訴えているのです。
その他にもなぜか仮名として登場する生物学者の一人がどう見ても宮崎駿監督にしか見えないおふざけぷり。
ともかく序盤でどうにか観客に興味を持ってもらおうと、あの手この手を仕掛けてきます。

その後は「巨災対」開設と同時に「エヴァンゲリオン」でお馴染みのBGMが演奏され、観客のハートをしっかり鷲づかみにして離しません。

もちろん、否定的に作品を評価することもできます。
1954年公開の「ゴジラ」(以下1954年版)の焼き直しでしかなく、政府役人への綿密な取材だけで息切れしてしまった庵野監督は、自身の代表作「エヴァンゲリオン」の実写版を製作するような気で製作してしまった。
また、前作から12年ぶりということで、その間に進歩したCG技術に目を奪われただけの作品と言えなくもない。

以前、CINEMA BOXにも書いたのですが、「GODZILLA ゴジラ」を観るまではどんなにハリウッドがCG満載の映画を作っても、
「日本にはまだゴジラがいる」
とどこかで思っていました。
ところが、「GODZILLA ゴジラ」を観てからは日本にはもうゴジラはいなくなってしまい、日本の特撮映画界はどうなってしまうのか?不安視していたのですが、本作のおかげで杞憂に終わったといえるでしょう。


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