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AlphonseのCINEMA BOX

管理人Alphonseが観た映画の感想を書いているブログ。

エヴァンゲリオン特集


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■TV版第1話、第2話以降

ここからは1話2話以降について書いておく。
さすがに1話2話のように細かく書いていく気はない。記憶に頼りながら書いているので、TV版での登場の時系列などバラバラだと思う。お許し頂きたい。

よく出来た作画と没入度の高い演出の仕掛けにまんまと引っかかってしまった後、数話を観る。

アスカ登場。往年の熱血ロボットアニメ調に。2体同時攻撃の回が私は好き。新旧劇場版にはない。死体のマネをしたり、トウジとの友情物語やレイの笑顔があったりして、どんどん親近感が増す。

工事現場のボーリングの音にウルトラセブンを彷彿。メトロン星人との対決シーンも連想。委員長の家族の名前が何気に新幹線になっている小ネタに気付いたりもする。

それでも何話の頃からか意味不明感がどんどん強まってくる。

ATフィールド、活動限界はまだなんとかなったが、リリス、リリン、使徒、人類補完計画。他多数。私にはリリス、リリンが特に意味不明。似た単語であるから混同してしまう。その上に馴染みがない。連想するものも出てこない。

数話みるとアダムが登場。アダムとイヴのイヴを連想するが、主役メカはエヴァ。すでに使われている(※1)から重複する。どういうこと?

※1)エヴァはイヴではなく福音(書)のこと。そしてリリンは人類をさす。リリスはざっくりいうとイヴ。だがそんな事は後に知る。

そのうち「魂のデジタル化はできません」とリツコのセリフ。何?魂。エヴァにアダムに魂。愈々ロボットアニメ感がなくなってキリスト教的世界観が増してくる。

エヴァをロボットと思い込んで観ている私には、違和感しかない。何故に勝手に暴走して動き出すのか。レイ(※2)にしても同じく人間だと思い込んでいる。何故に「三人目」とか言っているのか。謎は深まるばかり。

※2)レイは人間ではない。クローン人間である。それそれの個体で記憶が違うため、シンジに冷たかったり人間世界に疎かったりする。それがわかるのも後のこと。

こんな違和感だらけの作品。TVで人気が出るはずがない。途中で視聴をやめてしまうだろう。しかも詳細な書類描写が一瞬しか映らない。何が書いてあるかわからないまま次のシーンへ進む。サブリミナル効果の嵐に至っても同様。

ビデオならそんな事はない。一時停止という便利なものがある。1話2話にはサブリミナル効果の嵐がない。後半になって発動する仕掛け。何度でも観てしまう。

視聴を止めようかとも思った。話数的にも後半に入ってきている。内容もかなりシリアス路線に変更。ここまできても謎は増える一方。減る気配がない。そんな中エヴァの食事シーンを観る。

何?ロボットが食事。んなわけない。エヴァはロボットではないのか。生物?やっと一つ謎が解ける。この調子では話数的にも謎は解明されそうにない。

ええい。めんどう臭ぇ。ネタばれ覚悟でインターネットに接続。謎解説サイトを食い入るように読む。旧劇場版公開前だったが、見事な名推理だった。

既出だが、エヴァは人造人間。
ATフィールドは心の壁。他人との境界。
使徒は生物の進化の過程。そのためイカのような使徒が登場し、最後の使徒カヲルは人型なのだ。
「父と子と精霊の名のもとに」というキリスト教の文言から、父はゲンドウ。子はシンジ。精霊のレイ。そして聖母でありミサの意味をもつミサト。という人名に関する推理。
キリスト教的世界観からすると、これ以外の推理はありえないというものだった。
人類補完計画に関してもゲンドウが目指すのはユイとの再会。一方ゼーレの目指すのは不完全な人類を完全なものにする計画で別物である。というこれまた見事な名推理。

憑き物が落ちるとは、こういう状態をいうのだろう。

色々な謎が氷解。その他の細かいことまでは気にしていられない。世界観や細かな設定の辻褄が合わないことなどガンダムで経験済みだ。後からなんとでも言える。それがSF作品とロボットアニメがダメになった最大の原因でもあるのだが。

謎はすべて解けた。観るべきものはない。あとは人物に感情移入するしか見所がなくなってしまう。TV版が謎解き要素満載作品から、少年の成長物語へと私の中で変貌する。友人を守るために戦うシンジ。TV版ではトウジがエヴァに乗る。そのトウジを殺してしまう初号機。
鬱状態になってからサブリミナルの嵐。主人公への没入度がどんどん深くなっていく。

ネタばれ記事を観た手前、最終2話が物議を醸したのも知っていた。そのうち深夜アニメでエヴァの再放送が始まる。労せずして2回目視聴する。

エヴァが人造人間にしか見えてこない。そりゃ暴走もするわな。ATフィールドの意味を知ってから、リツコが話す山嵐のジレンマの話も違和感がない。元気一杯のアスカよりもミサトとリョウジばかりに注目がいく。世代的なものが原因だろう。本作の中ではTV版の頃からミサトがお気に入り。

しかし新旧劇場版を観てしまうとミサトは999、ヤマト、ウルトラマン世代のためにサービスしていたように思えて仕方ない。

深夜アニメで再放送されたためか、最終2話はレンタル店で長い間レンタル中だった。なんとか視聴。鬱状態になってからサブリミナルの嵐。次回予告も台本が書かれているだけ、作画が間にあわなかった(※3)とみえる。

※3)これも仕掛けの一つ。それを知るのも後年。

なんだかんだしている内、朝の食卓シーン。まさかの夢オチ?学園ラブコメの呈を成す。それは一つの可能性でしかなかった。SF風にいえばパラレルワールド。どんどんシンジの心理描写に肉薄していく。

次にゲンドウの声で「不自由をやろう」と地平線が描かれる。
それは、自分以外なにもない自由な空間に地平線が現れることで不自由が生まれるとしている。
ここから他者が現れ、軋轢が云々。。。
と自他の概念が描かれる。

というのが一般的なエヴァの解釈。しかし私の解釈で行くと、絵心のある人ならわかると思うが、登場人物だけ描いているとすごく自由なのに風景を描くととてつもなく窮屈になる。
自由奔放に画面で暴れまわっていた人物が背景を入れただけでとてつもなく窮屈そうになってしまう。
おそらく風景で東洋か西洋か過去か未来かを限定してしまうからだろう。

今でもここのシーンは作画のことだと思っている。
何の情報も設定もなにもない自由な状態。そこへ地平線が現れる。大地に立つ人型。これで上下天地が発生する。自由から不自由になる。背景を詳細に書き込む。設定をどんどん追加する。情報をどんどん追加する。ますます不自由になる。窮屈になる。閉塞感が増す。

2次元で書かれたものが、CG黎明期のようなドット絵から、ポリゴンで描かれ、3DCGで書かれていく。「インサイド・ヘッド」にはその逆が登場する。大林監督の「時をかける少女」には「知らないほうがしあわせだ。ってこともあるんだよ。」というセリフが登場する。

こんな面倒臭い解釈は私だけかも。TV版の中身に戻ろう。自他との境界を意識し、誰かに迎合する必要もないことに気付くシンジ。

ラストは自分の殻が少しづつ割れて、自分を認めていくシンジ。私はこのTV版のラストが感動的でバックに流れる主題歌と共に大好きだ。そのため今だにTV版は少年の成長物語だと思っている。


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